4月28日(日)主日礼拝 教会建設記念礼拝

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、どうか、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 205番(21) あるいは55番(1954年版)

  

聖書 

レビ記11章9-12節 

 

 

ヨハネによる福音書21章1-14節

    

  

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

今日、わたしたちをお招きくださり、感謝いたします。

旅行先におられる人も御守願います。

60年前、あなたが種を蒔き、育てられたこの教会が、伝道所、伝道教会となり、独立教会となりましてから、今週の月曜日、4月29日に第38回教会建設記念日を迎えます。

さまざまなことがありました。また、あったと思いますが、今まで御守り、導いてくださいましたことを感謝いたします。

多くの人が、ここにおいて求道し、あなたを信じ、礼拝を守り、教会に仕えてまいりました。

この群れの一人に加えられていますことを感謝いたします。

時代は移り変わりますが、どうかこの地にあって、あなたの福音を伝え続けていけますように、この教会を守ってください。

今日の礼拝も導いてください。

語る者、聴く者を励ましてください。

これからの一年も、教会から恵みを受け、教会に仕え、あなたに感謝と賛美をささげることができますように、お願いいたします。

教会が、世にあって、あなたのために、また人々の救いのために、仕えてゆけますように、弱く、誤りやすいわたしたちを、上より導いてください。

各地の教会、伝道所の礼拝の上にもあなたの御恵みをお祈りいたします。

今日、教会建設式が行われる志木北伝道所の上にも、主の力強い御導きを祈ります。

感謝、願いを、教会の頭なる主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。

アーメン。

 

説教 「人生の破れと恵み

 

(こどもの方へ)

 復活されたイエスさまに出会った物語が、付け加えられています。ペトロさんたちが、ティベリアス湖の所で出会った話です。ペトロさんたちは漁をしていました。なぜ、漁をしていたのでしょう。ペトロさんは、もともとは漁師でした。それが、人間を取る漁師にしてあげよう、と言われたイエスさまに従ったのに、そのイエスさまが捕えられ、十字架にかかって死んでしまわれたので、がっかりもし、することもなくなってしまったのです。ある時、ペトロさんは「わたしは漁に行く」と言いました。すると、他の弟子たちも、わたしも一緒に行くと言って、漁をしに行きました。

 悲しい気持ちで漁をしたと思いますが、その夜は何もとれず、夜明けになりました。みなさんは釣りをしたことがありますか? どうでしたか? 漁師さんが、魚が一匹もとれないということは、残念だったという以上に、本当に困ったことなんです。その時、岸に立っている人が、「船の右側に網を降ろしなさい。そうすればとれますよ」と言うので、だめでもともとと思って、そうしてみると、網を引き揚げるのも難しいほど、魚がたくさんとれたのですって。ヨハネさんは、岸に立っている人がイエスさまではないか、と気がついて、「主だ」と叫びました。それを聞いたペトロさんは、上半身裸だったので、失礼のないように上着を着て、泳いでイエスさまの所に行ってしまいました。

 岸ではイエスさまが待っていて、食事の用意をしてくださっていました。その時網にかかった魚の数が書かれていましたね。百五十三匹です。すごく正確に書かれています。当時、魚の種類が百五十三種類見つかっていたとも言われます。先ほどお読みしました旧約聖書のレビ記11章9―12節は、最初の魚類の分類といえますが、「ひれとうろこ」のあるものとないものに分けられています。そして、ひれとうろこがある方が、清い魚で、ひれとうろこのない方が、汚れた魚です、と書かれていました。イエスさまの弟子たちの網の中にいる全種類の魚は、あらゆる種類の人間を表していると思われます。しかし、清い者、汚れた者の区別は、イエスさまの十字架によって、なくなったのです。

 やっぱり、ペトロさんたちに対する「人間を取る漁師にしよう」というイエスさまの約束は、本当だったのです。そして、教会にいるみなさんは、この網の中の魚なのです。いろいろな魚がいます。でも、この網の目はゆるいので、外に出ることもできます。自由です。だからこそ、この網の中に留まろうとすることが大事で、そのような魚を見て、ペトロさんたち、伝道者の人たち、そしてイエスさまも、喜んでくださると思います。

 今日は、教会建設記念礼拝と週報に書かれていますね。わたしたちの入っている、この小平教会の38歳の誕生日です。いろいろな人がこの教会に入ってきて、過ごしたことでしょう。みなさんはかわいい魚ですが、イエスさまの言葉、神さまの言葉をいっぱい食べて、成長してくださいね。

 

讃美歌 390番(21) あるいは191番(1954年版)

 

(おとなの方へ) 

 復活の主に出会った物語が、また一つ書き残されています。21章14節で「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」と編集されていますが、この話は、前の復活物語と系統の違う伝承から取られていると言われています。一見美しく、牧歌的な、忘れがたい物語です。今までの場所はエルサレムでした。他の福音書、マルコとマタイでは、復活の主は「ガリラヤに行く」と述べられていました。これは、ガリラヤでの顕現物語です。

 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(6節)という主イエスの言葉は、この時、権威ある人の言葉として聞かれたわけではありませんでした。ふつうの人の助言として聞かれたのです。しかし、弟子たちは、もうどうしてよいかわからなかったので、それを言った人をまだ知らなかったにもかかわらず、容易に彼の言うことを聞いて、そのようにしたのです。漁というものは夜から行うものであるようです。一晩中網を打っても、一匹もとれなかったということでした。もし、最初の網を打つ前に同じことを言われたら、彼らはこんなに速やかに従わなかっただろうと思われます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(4節)と書かれています。彼らは、すでに疲れ果てていたのだと思います。体だけでなく、精神的にも疲れ果てていたと思われます。人はよほど困らない限り、もうどうしようもない、誰も頼りにできない状態にならないと、多くの人は神のもとには来ないもののようです。それは、人間としては不幸なことですが、それがわたしたちの背を押して、神のもとに来させ、常識では考え難いことに素直に従わせたことを思うと、後から振り返ると、それは幸運なことであったと思われるのです。もちろん、元々宗教的な人、またそういう環境の人もいます。しかし、誰かを頼ってとか、誰かを尊敬するあまりに教会に来た人で、教会を去っていった人もたくさんいるのです。

 彼らが、ここで、早速、この人の言葉に従ったのは、彼らの信仰のせいにすることはできないのですが、しかし弟子たちはこの時本気で仕事にとりかかったことは確かなようです。彼らは、どんな機会も逃すまいと、早速、網を投げているのです。今、わたしたちの労働が、努力の甲斐のないように見えても、そのような時も、主は常に見つめ続けていてくださるのですから、わたしたちは勇気を持つようにしなければならないでしょう。それは、一人一人の仕事、生活においてもそうですし、教会の仕事、奉仕においても、同じことが言えるでしょう。

 そして、網を打ってみると、魚があまりに多くとれて、もはや網を引き上げることができなかった、とあります。そして、「イエスの愛しておられたあの弟子」が、「ペトロに、『主だ』と言った。」と書かれています。この福音書は、なにか幸福がわたしたちに思いがけず到来した時は、いつもわたしたちの心を神に向けるようにしなければならないことを、わたしたちに教えてくれます。なぜなら、ヨハネは目では主イエスを認めることができなかったけれど、このおびただしい魚は神に由来するものであることを確信したからこそ、自分たちの手を導いたのは主イエスであると、結論を出したからです。しかし、信仰は最初にヨハネのうちに生まれましたが、そのあとのシモン・ペトロは情熱においてはヨハネを凌駕して、主イエスのもとに行きました。服は着ましたが、性急に、湖の中に飛び込んで、泳いで主イエスに会いにいったのです。しかし、最後には、早い遅いの違いはありますが、みんなイエス・キリストのところまで来たのです。

 こうして、主のもとにぞろぞろ集まってきた弟子たちを迎えてからの、この主と弟子たちの光景は、なんとも忘れがたいものです。主イエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい。」と言われています(10節)。主イエスは、この時の収穫を、彼らのせいにしておられます。まるで、弟子たちが自力でとったかのように言われています。わたしたちはいつも食べている食事、わたしたちが得たものをわたしたちのものと思っていますが、それは神の恩恵によるものであることを忘れないようにしたいと思います。

 だれも「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった、ということは、主イエスは、以前とは違う姿をしておられたのでしょうか。しかし、そのお方がだれであるか聞く必要もないほど分かっていたので、彼らは黙って食べたようです。わたしたちがあまりに会いたいと思っていた人と出会えた時は、むしろ、言葉は出てこない、あいさつもなしに、ただ一緒にいられるだけで十分幸福なのではないでしょうか。

 ここは、古代教会の聖餐の場面が背景にあることも言われます。わたしたちは、聖餐式で魚は食べませんが、魚は主イエス・キリストへの信仰告白の暗号でした。しかし、それだけではなく、主がわたしたちの必要を満たしてくださる方であることを思わされます。魚が一匹もとれず、朝食さえできなかった弟子たちのために、主は食事を供えてくださったのです。もう炭火が起こしてあり、その上に魚が乗せてあり、パンもあった、のです。これは、いままで主イエスと共にいたことで、試練を共にしてきた弟子たちに、主がねぎらいの食事をしてくださったとも言えます。弟子たちは、この時、とてもそんな資格はないのにと、ひたすら恐縮して頂いたものと想像されます。この静かな、沈黙の食事の風景の中に、弟子たちの恐怖、主を裏切ったことに対する恐怖を見ることもできます。この緊張感に満ちた食事は、しかし次第に、主に対する感謝へと無言のうちに変わっていったことでしょう。ここに満ちあふれているのは、聖餐式と同じように、神の子の恵みと感謝の光景に思われてなりません。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神さま

教会建設記念礼拝を守ることができ、感謝いたします。

この教会の将来のために、お祈りいたします。また人々が、様々な課題のために、祈ることができますようにお願いいたします。

わたしたちは、教会という舟で漁をしている漁師と思われます。

それは共同して行う業です。

み言葉を宣べ伝えることだけが仕事ではなく、いろいろな仕事があります。

教会の人たちが自分に合った仕方で、この業に参加できますように、お願いいたします。

世にいて、本当はあなたを求めている人を、どうか救ってください。

人生に何らかの破れが生じたこと、破れが元々あったこと等がきっかけで、神さまに出会い従うことになった人たちの幸いを思い、感謝いたします。

わたしたちが、これからいろいろなことがあって破れそうになっても、もう破れないこと、キリストと共に漁をしている人の網はどんなに弱くても破れないことを信じます。

わたしたちが教会生活を中心にして、信仰生活を送ることができますように、励ましてください。

感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。

アーメン。

 

讃美歌 99番(21) 

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「教会の将来を覚えて」です。