4月21日(日)主日礼拝

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、どうか、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 319番(21) 

  

聖書 

サムエル記上2章1-10節


 

ヨハネによる福音書20章30-31節


  

(祈り)

御在天の父なる神さま

今日もわたしたちを、この礼拝に招いてくださり、ありがとうございます。

あなたの御名を賛美いたします。

豊後水道沖で起きた地震の地域の人々、台湾東部地震、能登半島地震の被災地の人々のために祈ります。

わたしたちも地震に対して、どのようにしたらよいのか、考えていくことができますように、お願いいたします。

中東における紛争が、戦争に発展しませんように、国民、為政者の人たちが工夫していけますように願います。

ガザ地区のへの攻撃が終わるように、導いてください。

報復、復讐の気持ちを、あなたが宥めてくださり、暴力と違う方法で解決される日が来ますように、願います。どうか、これらの国の人たちに平和が訪れますよう、お願いします。

今日の礼拝を守ることができますことを感謝いたします。

わたしたちの犯した罪をどうか、お赦しください。

今日の礼拝においても、あなたのわたしたちにしてくださいました恵みの業を確認させてください。

今日もあなたの御心によって、励ましが与えられますように、お願いいたします。

忙しい人たちを支え、なすべきことをしていくことができますように、力と励ましをお与えください。

困難に直面している人に、信仰による解決が与えられますように、願います。

体調の悪い人たち、病気のある人たちを守り、癒してください。

聖霊の御働きを乞い願います。

この礼拝を終わりまで導いてください。

感謝、願いを御子、主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。

アーメン。

  

説教 「聖書

 

(こどもの方へ)

 ヨハネによる福音書には、著者のあとがきのようなものが付いています。他の福音書にはないものです。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:30―31)と書かれていました。

 この本を書いた目的は、この本を読むあなたたちが「イエスの名により命を受けるため」ということです。命を受けると言われても、みなさんには今、命がありますよね。どういうことでしょうか。

 創世記2章に、エデンの園にあった命の木のことが出てきましたね。このエデンの園から、アダムとエバは追い出されます。理由は、彼らが罪を犯したからです。3章23-34節にこう書かれています。「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」。罪を犯したために、楽園から追放された人間に、この命の木に近づくことができないように、神さまがこのようにされたというお話です。

 この「命」をイエスさまから受けなさい、と言っているのです。どういうことかは、この福音書を読めば分かるはずです、と言っているのです。どうですか? 聖書はそのまま読むと、現代の人には分かりにくいこともありますが、礼拝で、教会の聖書についての解きあかしを聞いていると、いつか分かるようになるものです。

 また、イエスさまは、聖書に書かれていること以外にも、いろいろな不思議なことをなさったとも書かれていましたね。イエスさまについての優れた物語、信仰にあふれた物語がいろいろ生まれました。いろいろな時代、いろいろな国に、イエスさまの不思議なお話があります。みなさんにも一人一人、イエスさまとの不思議なことが起こると思います。それを信じて、聖書の学びを続けていきましょう。

 

讃美歌 52番(21) 

 

(おとなの方へ)

 ヨハネ20章19節から29節までは、みなさんには何回も話をしたことがありますので、春の伝道礼拝にしたいと思います。それで、今日は30節から31節を、読みたいと思います。(もう説教を40年もしていますと、同じ箇所が出てくることが多くありますが、こういうあまり読むことがない箇所はとてもうれしいです。)

 福音書は、だいたい唐突に終わっています。神の起こされた出来事だけが記され、唐突な感じで終わっていますが、ヨハネによる福音書に記された、著者の一人称による付け加えは、なんのためのものだったのだろう、と考えさせられます。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(30節)。この後書きがなかったならば、読者は、ヨハネは主イエスが行ったすべての業を書き残したと思うかもしれないが、自分は多くの事実の中から、いくつかを選んで書いただけであると伝えています。この福音書だけでなく他の福音書も、主イエスの伝記として見るならば、不完全で、書かれていない年齢の時のことや、私生活についてなども抜けていることが多々あります。また、公の宣教の時代のことが細かく記録されているわけでもありません。しかし、各福音書記者は、救いに役立つことをこれで十分である分を選び、編集して、書き残したのです。ヨハネは、イエスがメシアであることを信じ、イエスの名による命を受けるため、そのために役立つことだけを書いたと言っています。

 そして、救いを求めて、限りなくそれを捜し回る必要はないほど、ここに十分なことが記されている、ということは、恵みではないでしょうか。もちろん知的好奇心は悪いことではなく、その他の本を読むことは有益なことです。しかし、わたしたちは、救いに関しては、広く浅くではなく、聖書は、旧約39冊、新約27冊しかありませんので、深く学ぶことができます。有益な本はたくさんあります。しかし、少なくとも救いに関しては、さまざまな本、宗教、哲学、思想の本を読み漁らなくてもよい、別に読んでもいいですが、不安にかられて、捜し回らなくてもよいということです。わたしも、がつがつと本を読むのは、クリスチャンになってからやめました。仕事上必要な本は読みますが、それ以外は読まない日が続いて、そうするとキリスト教の本しか読まないことになります。ある時、牧師は雑学も大事だということを聞き、クリスチャンになる前読んだ文学の本、また新たに生活に役に立つ実用書、政治、経済の本なども読みますが、それは聖書によって救われた魂のプラスアルファでしかありません。救いのために本を読むのではなく、ゆとりを持って、自由な気持ちで本が読めるようになるということも、キリスト者に与えられた恵みであると思います。

 しかし、信仰に役立つ本を読まなければならないということもありません。忙しい日、何の本も読まずに終わってしまう日も、がたがたして一日過ごすことができるのも、生活や仕事に追われて、遊びや自分の時間が持てなくても、また逆に食べるためだけに生きたと思うような日も、いったいわたしは何のために生きているのだろう、と思ったりすることもなく、これでいいと思うことができます。キリスト者は、今は神に平安を得ていて、「ただ生きること」を享受することができる者とされたのです。

 聖書を開いて、今はあまり感動がないかもしれません。わたしも説教したことのない箇所は楽しいですが、それほど心が踊らないことがあります。高齢になって、伝道者になられた先生方が楽しそうにしているのを見て、うらやましく思うことがあります。もう少し、聖書がたくさんあったらよいのに、と思ったりします。この教会の中には、わたしよりもっと信仰歴の長い人もおられますから、たいへんです。しかし、この聖書、涙が止まらない程の救いの感動をかつて味わわせてくれた本が、ここにあることは確かです。

 さて「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書かれていました。ユダヤ人に対しては、待ち望んだメシアはあのイエスであると、また異邦人には、この命を与えてくださった方イエスはメシアつまりキリストであると言われている、どちらが先かというと、そうなると思います。わたしたちがこの「命」を受けた日のことを思い出してください。生きている人はみな命を持っているのにおかしなことを言うと、教会の外の人は言うかもしれませんが、わたしたちがそれまで持っていた命とはまったく違う命を受けたのです。罪の中で持っていた命と違う神の命、永遠の命を受けたのでした。

 ヨハネは「神の子メシアであると信じるためである」と、神の子を飾り立てるのに、メシアという言葉を使っています。「律法と預言者」と言われていた旧約聖書において、このメシアという言葉は、さまざまな救いの働きが詰め込まれた言葉です。ですから、わたしたちもそのために、旧約聖書に深く耳を傾ける義務と権利を持っていることになります。

 旧約聖書の中で、メシアについて語られているところの一例として、サムエル記上2章1―10節を見てみましょう。ここは、ハンナの祈りの中の言葉です。別にハンナの祈りと思ってもかまいませんが、子どもが生まれなくて他の妻にさげすまされていた人が、子どもを得たことを主に感謝してささげる祈りより大きな祈りであるようにもわたしには思われます。それはともかく、このハンナの祈りの中の、2章10節の「油注がれた者」と訳されている言葉が「メシア」です。(油をそそぐ〈マーシア〉という動詞の受け身の言葉です。)待望の救い主の姿です。強者と弱者の地位の逆転が語られています。「勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える」(4―5節)。また「主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる」(7―8節)と祈っています。そして、「主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる」と結んでいます。わたしたちの王であり、メシア(キリスト)であるイエス、その神の御子を主なる神が打ち砕いて、世を裁いたことが、新約聖書の驚くべきメシアと言えます。

 メシアは、旧約で予想されていた内容、わたしたちのマイナスをプラスに、プラスをマイナスに逆転される方であることを受けついでいます。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。イエスの名により命を受けるためにこの福音書を書いた、と書かれています。永遠の命のことです。イエスによって命を得ると言わずに、イエスの名により命を受ける、と言われています。この恩恵にあずかるために、何かを持っている人という条件は全くないのです。ただイエスの業によって命を受けることをイエスの名により命を受ける、と言っているのです。永遠と自分との距離がどんなに遠いものか思い知っている人は、この言葉のありがたさを感じ、それは安易すぎるとは決して言わないでしょう。

 神は「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創世記3:24)のでした。ケルビムは天使の一種ですが、きらめく剣の炎は神の正義を表すものです。しかし、神はその正義の剣を人間に向ける代わりに、ご自身に向けられたことは、なんという驚くべきことであったでしょうか。この驚くべきことを驚き、受け入れることが、イエス・キリストの業を信じること、イエス・キリストの名を信じる、ということだと思います。わたしたちが受けた命とはどのような命なのか、わたしたちは生涯を通じて、それを知らされ、死を越えてもそれが何であったかを、天の神は教え続けてくださることと思います。

  

(祈り)

造り主なる神さま

あなたから、主イエスのゆえに頂いた命は、わたしたちの生まれながらの命を正しく用いさせてくださるはずのものです。それでもなお誤りやすい者ですが、あなたから受けた命に励まされて、進んでゆけますように、導いてください。

大きな変化の中にあるわたしたちの世界にあって、永遠者を見つめ、どのように生きたらよいかを教えてください。

神の言葉が書き記され聖書、神の言葉そのものである御子キリストを、わたしたちに与えてくださいましたことを感謝いたします。

聖書を一人で読むことも大切な信仰生活と思いますが、教会が生み出した聖書を、教会で、信じる人たちと共に味わうことのできる、最も幸いな礼拝の時を、これからも大切にしてゆけますように、お願いいたします。

来週は、教会建設記念の礼拝を行います。

この教会、礼拝共同体を祝福し、守ってください。

感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。

アーメン。

 

讃美歌 55番(21) あるいは190番(1954年版)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「教会建設記念礼拝を覚えて」です。